2013年09月16日

老いと生きがい

高齢化社会を迎えたせいか最近 「老い」 についての話題をよく耳にするようになりましたが、 老いは今急に訪れたのではなく、 昔から誰にでも訪れる大切な時です。

精神科医の新福尚武氏が 「さわやかに老いる知恵」 (婦人の友社) の中で、 人間の老い方を教える 「心訓十カ条」 を紹介しております。

一、 老人で、 いちばん寂しいことは、 する仕事がないことである。

一、 老人で、 いちばん惨めなことは、 人間らしい生活ができなくなることである。

一、 老人で、 いちばん悲しいことは、 敬して遠ざけられることである。

一、 老人で、 いちばん醜いことは、 過去にしがみついて生きていることである。

一、 老人で、 いちばん不幸なことは、 「老い」を受け入れられないことである。

一、 老人で、 いちばん幸せなことは、 事柄の本質が見極められるようになることである。

一、 老人で、 いちばん嬉しいことは、 まだ社会に役立つことができると自覚できることである。

一、 老人で、 いちばん美しいことは、 若い者のために陰の力となってやることである。

一、 老人で、 いちばん楽しいことは、 年齢のことなど忘れて好きなことに没頭することである。

一、 老人で、 いちばん尊いことは、 死を忘れないことである。

 企業戦士や、 子育てを終えた教育ママなどは、 老年性うつ病に罹り易いと言われます。 人生は短距離競走ではなくマラソンのようなものです。 あるいは次世代にバトンを託す駅伝のようなものであると言えます。 故に焦らずたゆまずゴールを目指して前進しましょう。

 コヘレトの言葉3章1節に 「何事にも時があり、 天の下の出来事にはすべて定められた時がある。」 とあります。 誰にも成すべきことが折々、 備えられているとするならば、 そこに生きがいを見出せるはずです。

posted by しょうちゃん at 09:42| Comment(0) | 学問 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年07月13日

その時

本日は教会で葬儀を行うこととなりました。 遺族近親や故人と長年親しくして来られた人々にとっては深い悲しみを覚える日です。 「死」 という冷酷な現実の前に人は成す術がなく、 人間としての無力さを覚えざるを得ません。

 けれども有限なる人間であるとはいえ、 人は絶望を選択できる一方、 希望をも選択することができる存在です。 最後のその時、 平安なる思いを持って自分の死を受容できるか否かは、 死をもって全てが終わったと思うのか、 あるいは死の先に新たな世界があるかどうか、 そのどちらを選択するのか、 またそれまで一体何に委託して生きて来たかによって決まると言えます。

 使徒パウロは 「もし、 イエスを死者の中から復活させた方の霊が、あなたがたの内に宿っているなら、 キリストを死者の中から復活させた方は、 あなたがたの内に宿っているその霊によって、 あなたがたの死ぬはずの体をも生かしてくださるでしょう。」(ローマの信徒への手紙8章10節) と記しております。

 最後のその時、安心してお委ねできる方を信じている人は幸いです。

 

posted by しょうちゃん at 06:58| Comment(0) | 学問 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年07月06日

怒ること、叱ること

怒りの余り我を忘れ失敗することがあるものですが、 同志社の創設者の一人、 新島襄が 「「怒りっぽい人は他人を罰するよりも、 自分を罰するほうが多いものだ。」 と述べています。 「怒ること」 と 「叱ること」 は、 意味することが全く違います。

 ヨハネの黙示録3章19節に 「わたしは愛する者を皆、 叱ったり、 鍛えたりする。 だから、 熱心に努めよ。 悔い改めよ。」 とありますが、 その前に 「また、見えるようになるために、 目に塗る薬を買うがよい。」 (同18節) とあります。 叱られる背後には愛があることを覚えたいものです。

 新島襄は、 英語学校で2クラスを合併する案を提示した際、 上級生たちがストライキを起こすという出来事を経験しました。 その時、 彼は 「今、 学校で問題になっているのは、 生徒や教師ではなく、 すべて校長である私の責任だ。」と語り、 杖で何度も自分の手を叩いたと言うエピソードがありますが、 彼の生徒たちに対する思いは、 言葉以上の力となって伝わり、 悔い改めへと導くことが出来たのです。

posted by しょうちゃん at 09:12| Comment(0) | 学問 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする