2016年05月30日

主の臨在体験

 昨日は主は今も生きて働き給うお方であることをまざまざと体験させていただきました。4月より遣わされた教会は信徒2名、礼拝の場は6畳一間のプレハブ、しかもトイレ無し。最寄りの駅までは車で20〜30分、しかも借りている土地には隣のアパートの住人も駐車しても良いとの約束をしていたようで、占拠されて車1台か2台止めるのがやっとの状態。
 家族3名が加わり教会員5名となったとはいえ、トイレがないことには誠に落ち着いて教会形成ができない状態にありました。躓いて去ったという教会の青年を訪ねて挨拶に伺ったのですが、お会いしたのがご両親、引退された牧師夫妻でした。
 色々と話をする内に共通点する知人が数人いることが分かりました。教会の厳しい現状を率直に話すと、「実は隣家を教会のために購入しましたので、先生、使ってください」との申し出がありびっくりしました。この老牧師は教会の在り方に心を痛め祈り続けて来られた方であることは聞いておりましたが、特に「この教会のために」ということではなかったようです。複数の教会のことを考えておられたようですが、初対面であるにも拘わらずそのような提案をしてくださった背後に主の臨在を覚え共に感謝の祈りをささげました。
 これから出勤しますと言う青年とも会うことができましたが、会う予定のなかったご両親とお会いすることになったが故に、このような形で導かれたと思わざるを得ません。「もし二週間前でしたら、このような話はありませんでした」と言われましたが、早く訪問したいと願いつつも時間が取れずに遅くなってしまいましたが、むしろそのことがジャストタイミングになる結果となったようです。
 「あなたがたの内に働いて、御心のままに望ませ、行わせておられるのは神であるからです」(フィリピの信徒への手紙2章13節)の御言葉が心に響きました。
 購入された家は染物屋を長くされた家で、先代は町会議員をされた方とのこと。100坪の土地に立つ家でした。「もっとキリストに染まれ」との天来の示しを頂いたような思いをさせられました。いよいよ本格的に伝道できる体制が整いつつあります。
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2016年05月22日

キリスト道

   昨日は日本福音学校新宿校で「レビ記」の授業を担当させていただきました。祭儀律法を中心とする大変難解な箇所であると思われがちですが、故森山諭牧師の著書『冬になる前に』を参考にしましたが、犠牲として捧げる牛や羊などの動物の特徴をよく捉え、ラクダや岩狸、豚、野ウサギ、それらは皆、私たち自身の在り方とその姿を映し出す象徴的なものであることを教えられました。
 『聖書を味わう』(高橋重幸著・オリエンス宗教研究所)の中で、著者はこのようなことを記しております。

  ある中国の聖書翻訳者は「ロゴス(ことば)よりも「道」のほうが東洋人には理解しやすく、また深い
  内容を持っているので、ヨハネ福音書1章1節の「初めに(言)があった」という句を「初めに(道)が
  あった」と訳出したほうがよいとさえ主張しています。
  実際、「神道」や「道教」という宗教や哲学もありますし、また修道院や道場、道徳、道義という語も、
  あるべき人間の姿と関連しています・・・・・。
  「キリスト教」とはいわずにむしろ「キリスト道」といったほうが、もっとイエス・キリストの本来の意向に
  地かいのではないかとさえ主張しています。

 主イエスは「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」(ヨハネによる福音書14章6節)と語らましたが、道を見失ってしまった自分であることを知るとき、聖書の世界は当人にとってよりリアルなものであることを知ることでしょう。
posted by しょうちゃん at 08:13| Comment(0) | 日記・エッセイ・コラム | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年05月16日

すべて優等生

  『時代を見通す発送』(木村尚三郎著・講談社)に個性を尊重するフランスのことが、このように紹介されています。

    「フランスの小学校では、卒業式の際に一人一人の生徒がすべて優等生の免状を貰う。
      地理の優等生があり、歴史の優等生もある。かと思えば、勇気の優等生あり、親切の
      優等生あり、腕力の優等生もある。つまり正規の学科だけでなく、それ以外の分野
      についても、一番擢(ぬき)んでた者に、優等生の免状が与えられるのである。」

  大変思いやりのある対応です。コロサイの信徒への手紙3章12節から14節に「あなたがたは神に選ばれ、聖なる者とされ、愛されているのですから、憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたも同じようにしなさい。これらすべてに加えて、愛を身に着けなさい。愛は、すべてを完成させるきずなです」とあります。
  この御言葉の前提にあるのは、皆、神によって愛されているお互いであるということです。そうであるとするならば、互いを肯定的に見れるようになるはずです。



posted by しょうちゃん at 06:31| Comment(0) | 日記・エッセイ・コラム | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする